こんばんは、カワハギです。
人生にはその人の生きる欲求の規模というものがある、という話です。
何年か前、顔見知りのおばあちゃんが亡くなったんですね。
金持ちそうには見えない、普通の田舎のおばあちゃんなんです。
その際に、それ以前に亡くなった旦那の資産やらなんやらで3000万円ぐらい資産があったそうです。
でも、その人は結局そのお金を使わないで亡くなったそうで…
その時に色々考えました。
「なんでお金を使わなかったんだろう?」
思い浮かぶ考えとしては、
①今後何歳まで生きるかわからないので子供に迷惑をかけないように貯めておきたかった。
②子供に相続させたくて敢えて手を付けなかった。
③使いみちが思い浮かばなかった。
①は、老人誰しも思うことで、年金を食いつぶして葬式代も残せないようなら子供が金銭的に困るものです。
ただ、その方は旦那が旋網船員だったので、船員遺族年金でそんなに困らない額が入って来ていたはずです。
大体、こちらの葬式の相場は200万ぐらいだが、義理張りの香典代(田舎はコレが多いがから意外と出費が出る)も入るので、以後の後始末や法事を含めてもトントンになるんじゃないのだろうか?
後は、自分がボケた場合に老人ホームに入るとして大体、月12~14万円かな。
年間160万円前後か。
これも船員遺族年金なんかで8割は賄える気がする。
②に関してはどうだろうか。
家族関係を知らないので、子供の兄弟が複数いた場合は、逆に面倒くさいと思う。
子供が一人っ子なら問題ないんだろうけど。
兄弟間で揉める元凶になったりするので、逆に多くない方が良い気もするが…
それはケースバイケースだよなあ
でもまあ、個人的は
9割は③なんじゃないのかな、と思う。
つまり使いみちがわからない。
そりゃあそうで、今まで質素に暮らしていれば金の使い方も慣れないし、逆に使う事で資産が減るのが恐ろしいとすら感じるだろう。
良いものを食おうとしても、もう老齢の身体なので普段食べつけているものを変わらず食った方が健康に良いだろうし。
車にせよ、家にせよ、もういらないし。
じゃあ、どこかに行きたいかと言えば、子供のところに行くぐらい。
旅行に行こうものなら、逆に不安が多くて面倒くさくってできなくなる。
私はその時、人生にはその人が生きる規模がある、と思いました。
自分の生まれてから現在迄の行動の枠で、人生の生きる見通しができる。
行動こそが人生なら、その人の人生の規模は今まで経験した範囲の中で決まって行くのではないか。
私は最近、you tubeで成功者の話をよく聞くんですが、
海外のモルディブに行ってライブ配信してますとか、
自粛期間中なので高級な料理を取り寄せてますとか、
何千万円の資金を回して仕事をするチャンスを与えますとか、
こちらからすると、そうなんだ、と言う気分に成りがちになる。
特に羨ましくもなく、嫉妬もなく、他人の人生だなあ、と考えがちになる。
つまり、欲求の規模も生きてきた枠で固定されてしまうのだ。
例えば、「宝くじは買わなきゃ当たらない」が口癖の先輩に
もし、宝くじが当たったら何したいですか?
と訪ねたら、
第一声は「今までお世話になった人たちを飲みに誘って全額奢ってあげたい」
というものだった。
別に海外に移住したいとか、
自分で企業するために資金にしたいとか、
世界一周旅行したいとか、
そんなものは特に無いようだった。
欲求の大小に良し悪しがある訳ではないが、
それは内側から発せられるものでなく、
今まで見聞きした事、人間関係、住んだ場所などの外枠で
人生の欲求の規模は決まるような気がする。
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